第2回で扱ったSchrödingerの黒字転換。その主因だった株式評価益は、Ajax Therapeutics買収によるものでした。 第4回のAbsciに4,000万ドルを出資したのも同じ企業です。 これまで7社を「売り手側」から見てきましたが、ここで初めて買い手側に立ちます。 2026年8月5日発表のQ2決算実績から検証します。
Eli Lillyは1876年創業、米インディアナ州インディアナポリス拠点。2026年に創業150年を迎えました。 2025年11月、ヘルスケア企業として初めて時価総額1兆ドルを突破しています。
これまで扱った7社と比べると、規模の桁が違います。
| 企業 | 2026年Q2 売上高 | レイヤー |
|---|---|---|
| Eli Lilly | 229億7,400万ドル | 4 |
| IQVIA | 43億6,800万ドル | 2 |
| Illumina | 11億5,900万ドル | 2 |
| Tempus AI | 3億8,249万ドル | 2 |
| Schrödinger | 5,889万ドル | 2.5 |
| Absci | 32万ドル | 3 |
Lillyの1四半期の売上は、Absciの約7万倍です。 同じ産業を扱っていても、企業としての性質はまったく異なります。
Q2の売上増加48%の内訳は、数量が60%増加し、実現価格が13%低下したというものです。 つまり値下げしながら数量で押し切っている構図です。
地域別に見ると、米国が33%増(数量+37%、価格▲3%)、 米国外が80%増(数量+113%、価格▲36%)。 米国外の価格下落は、Mounjaroが中国の国家医療保険薬品目録(NRDL)に収載されたことが主因です。
Q2で最も重要なパイプライン進捗が、三重作動薬retatrutideです。 追加の第3相試験3本で良好な結果が得られ、 肥満症・閉塞性睡眠時無呼吸・変形性膝関節症疼痛の3適応について、 グローバル申請を支える臨床データパッケージが完成したとされています。 米FDAへの生物学的製剤承認申請は2027年第1四半期を予定しています。
肥満症市場が特異なのは、対象患者が数億人規模でありながら、 有効な薬理学的治療が長らく存在しなかった点です。 腫瘍領域のように患者を細かく層別化する必要がなく、 1剤で巨大な市場を取れる構造になっています。 レイヤー3企業が狙う精密医療とは、市場の性質が正反対です。
これまで7社の規制論点を整理してきました。Lillyはまた別の位置にあります。
| レイヤー | 企業 | 規制の意味 |
|---|---|---|
| 3 | Recursion、Relay、Absci | FDA承認=ゼロがイチになる |
| 2 | Tempus AI | FDA承認=既存売上の単価が上がる |
| 2 | Illumina | 中国UEL=地域市場へのアクセス制限 |
| 2 | IQVIA | 規制の複雑さ自体が需要を生む |
| 4 | Eli Lilly | 薬価政策=既存の巨額収益が直接削られる |
Q2の実現価格は全社で13%低下しました。 内訳を見ると、米国は▲3%(リベート・割引の見積調整を除けば約▲9%)、 米国外は▲36%です。
注目すべきは、Lillyのリスク要因に 「薬価、償還、患者アクセスに影響する政府および民間主体の行動による継続的な価格圧力」 および「米国政府との薬価・アクセスに関する自主的合意の実施」 が明記されていることです。
後者は、大手製薬各社が米国政府と結んだ薬価に関する取り決めを指すと考えられます。 成功して売上が大きくなるほど、政治的な価格圧力の対象になるという構造です。 これはレイヤー2〜3の企業には存在しないリスクです。
| 項目(百万ドル) | 2026年Q2 | 2025年Q2 | 増減 |
|---|---|---|---|
| 売上高 | 22,974 | 15,558 | +48% |
| 売上原価 | 3,268 | 2,448 | +33% |
| 研究開発費 | 3,819 | 3,336 | +14% |
| マーケティング・販売・管理費 | 3,430 | 2,753 | +25% |
| 取得IPR&D費用 | 2,776 | 154 | NM |
| 資産減損・リストラ等特別費用 | 703 | — | NM |
| 営業利益 | 8,978 | 6,867 | +31% |
| 税引前利益 | 9,247 | 6,777 | +36% |
| 法人税等 | 2,152 | 1,116 | +93% |
| 当期純利益 | 7,095 | 5,661 | +25% |
| 希薄化後EPS(報告ベース) | 7.94ドル | 6.29ドル | +26% |
| 希薄化後EPS(Non-GAAP) | 8.38ドル | 6.31ドル | +33% |
| 1株当たり配当 | 1.73ドル | 1.50ドル | +15% |
| 希薄化後加重平均株式数(千株) | 893,671 | 899,793 | ▲0.7% |
出典:Eli Lilly 2026年第2四半期決算リリース(2026年8月5日)。
粗利率86%は、Illuminaの66%、Schrödingerの71%を大きく上回ります。 価格が13%下がってなお粗利率が改善しているのは、 生産コストの改善と製品ミックスの好転によるものと説明されています。
注目すべきは研究開発費が売上の17%にとどまっている点です。 金額では38億ドルと巨額ですが、比率で見れば、 レイヤー3企業(Relayは売上の200倍以上をR&Dに投じている)とは対極にあります。 売上の規模が大きいため、R&Dを増やしても比率は下がるという構造です。
Q2で最も特異な項目が、取得IPR&D費用27億7,600万ドルです。 前年同期の1億5,400万ドルから18倍に膨らみました。 これはEPSに3.03ドルの押し下げ効果をもたらしています。
主因はOrna TherapeuticsとAjax Therapeuticsの買収です。
加えて資産減損・リストラ等特別費用703万ドル(前年同期ゼロ)も計上されており、 これはKelonia TherapeuticsとCentessa Pharmaceuticals買収に伴う 従業員株式報酬の権利確定加速および統合費用が主因とされています。
実効税率も16.5%→23.3%へ上昇しました。 取得IPR&D費用が損金算入できないことが主因です。 買収を積極化すると税率が上がるという関係になります。
Lillyは会計上、「ヒト用医薬品」という単一セグメントで報告しています。 したがってセグメント分析は、製品別・地域別、そして本シリーズの文脈では 「AIへの取り組み」という切り口で見るのが有効です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | LillyPod |
| 稼働開始 | 2026年2月、インディアナポリスで開所 |
| 構成 | NVIDIA DGX SuperPOD。Blackwell Ultra GPU 1,016基 |
| 性能 | 9,000ペタフロップス超のAI性能 |
| 構築期間 | 4か月 |
| 位置づけ | 製薬企業が自社で所有・運用するものとして最も強力とされる |
同社の研究開発情報担当バイスプレジデントは、 従来の創薬が湿式実験の物理的な制約を受けており、 生産性の高いチームでも標的あたり年間およそ2,000の分子アイデアしか検証できなかったと説明しています。 スーパーコンピュータはこの制約を取り払うものだ、という主張です。
本シリーズの文脈で最も注目すべきなのが、この取り組みです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | Lilly TuneLab |
| 開始 | 2025年9月 |
| 内容 | Lillyが長年の自社研究で訓練した創薬AIモデルを、バイオテク企業が利用できる連合学習(federated learning)プラットフォーム |
| 基盤技術 | NVIDIA FLARE。データを直接共有せずにモデルを活用できる仕組み |
| 参加条件 | モデル利用の見返りに、自社の研究データを提供してモデル訓練に貢献する |
| データの価値 | 10億ドル相当とされる |
| 参加企業数 | 開始数か月で70社超。2026年末までに150社が目標 |
| 2026年の拡張 | Benchling、Revvityとの連携。5月にはCollaborative Drug Discoveryと提携し、CDD Vaultに統合 |
サンフランシスコ・ベイエリアに設置される新しい取り組みです。 Lillyの生物学・科学・医学の専門家と、NVIDIAのAIモデル構築者・エンジニアが同じ場所で働き、 NVIDIA BioNeMoを基盤プラットフォームとして 大規模データの生成とAIモデルの構築を行うとされています。 次世代のNVIDIAアーキテクチャ(Vera Rubin等)への投資も想定されています。
Q2および四半期末以降の買収活動は、極めて活発です。
| 時期 | 対象企業・内容 |
|---|---|
| Q2 2026(完了) | Orna Therapeutics、Ajax Therapeutics、Centessa Pharmaceuticals、Kelonia Therapeutics |
| 四半期末以降(完了) | 感染症ポートフォリオ構築のための3社買収 |
| 四半期末以降(合意) | AtaiBeckley(治療抵抗性うつ病・メンタルヘルス) |
| 2026年6月出資 | Absci(ABSI)に4,000万ドルの戦略的持分投資(プログラム権利の取得なし) |
| 設備投資 | インディアナ州製造拠点に追加45億ドルを投じることを表明 |
第4回のAbsci記事で、Lillyが4,000万ドルを出資しながら プログラム権利を一切取得しなかった点を論点にしました。 Lillyの側から見ると、この4,000万ドルは Q2のIPR&D費用27億7,600万ドルの約1.4%にすぎません。 本気で欲しい資産は買収し、様子を見たい資産には少額出資する。 その使い分けが、規模の差から浮かび上がります。
3部作の4指標は、Illumina以降まったく不要になりました。Lillyでも同様です。 キャッシュランウェイも実現率も、この企業には概念として存在しません。 通常のバリュエーション指標で見ます。
| 項目 | 更新後 | 従来 |
|---|---|---|
| 売上高 | 850億〜870億ドル | 820億〜850億ドル |
| パフォーマンスマージン | 49.0%〜50.5% | 47.0%〜48.5% |
| 税率 | 18%〜19% | 変更なし |
| 1株当たり利益(Non-GAAP) | 35.50〜36.50ドル | 35.50〜37.00ドル |
パフォーマンスマージンは、粗利益から研究開発費とマーケティング・販売・管理費を差し引き、売上高で除したもの(会社定義)。EPSガイダンスは2026年6月30日以降に発生する取得IPR&Dを含みません。約8億9,400万株、為替はユーロ1.14、円153、人民元7.1を前提としています。
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 時価総額 | 約1.08〜1.09兆ドル(2026年8月10〜12日時点) |
| 株価 | 約1,215ドル(2026年8月12日時点) |
| 52週高値/安値 | 1,249.45ドル / 623.78ドル |
| 過去1年の時価総額増加率 | 約+83.6% |
| Non-GAAP EPSガイダンス中間値 | 36.00ドル |
| 予想PER(編集部試算) | 約33.8倍 |
| PSR(編集部試算) | 約12.6倍(1.09兆ドル÷通期86億ドル中間値) |
| Q2の1株当たり配当 | 1.73ドル(前年同期比+15%) |
時価総額・株価は2026年8月10〜12日時点の集計値であり、日々変動します。PER・PSRは通期ガイダンス中間値を用いた編集部の機械的な試算です。
予想PER約33.8倍という水準は、前回のIQVIAやIlluminaより高いものです。 ただし成長率がまったく異なります。
| 企業 | Q2売上成長率 | 営業利益率 | 予想PER(試算) |
|---|---|---|---|
| Eli Lilly | +48% | 39.1% | 約33.8倍 |
| Illumina | +9.5% | 21.1% | 約36.6倍 |
| IQVIA | +8.7% | 11.6% | ― |
| Tempus AI | +22% | ▲19.8% | 算出不可 |
成長率48%・営業利益率39%でPER約34倍という組み合わせは、 少なくとも数字の上では割高とは言い切れません。 問題はこの成長率がどこまで続くかです。 売上850億〜870億ドルという規模から、さらに48%成長を続けることは 算術的にきわめて困難です。
希薄化後加重平均株式数は8億9,979万株→8億9,367万株へ0.7%減少しました。 配当も1株1.73ドル(+15%)と増配が続いています。
レイヤー3企業(Recursion +52%、Absci +23%、Relay +18%)と比べると、 資本の使い方が正反対です。 レイヤー3は株式を発行して現金を得る側、Lillyは現金で株式と企業を買う側にいます。
Q2の売上229億7,400万ドルのうち、 MounjaroとZepboundの合計が148億7,100万ドル(約65%)を占めます(編集部計算)。 同社もリスク要因に 「総収益の相当割合を比較的少数の製品または製品クラスに依存していること、 およびサプライチェーンの統合」を明記しています。
競合の動向、安全性シグナル、特許、製造上の問題のいずれかが このクラスに生じれば、影響は全社に及びます。
実現価格は既に13%低下しています。 米国政府との薬価・アクセスに関する自主的合意の実施がリスク要因に挙げられており、 成功して売上が拡大するほど政治的な価格圧力の対象になる構造です。
Q2だけで4社を買収し、四半期末以降にさらに3社の買収を完了、1社と合意しています。 取得IPR&D費用は27億7,600万ドル。 これらの資産が期待どおりの成果を生まなければ、 費用は回収されません。 同社もリスク要因に「買収および事業開発取引の影響と不確実な結果、および関連コスト」を挙げています。
注目すべきは、Lillyのリスク要因に 「事業の様々な側面における人工知能その他の新興技術の利用、 および第三者とのそうした技術の利用または共有に関する提携。 これらは競争、規制、訴訟、サイバーセキュリティその他のリスクを増大させうる」 という文言が含まれていることです。
これはTuneLabのような取り組みを念頭に置いたものと読めます。 自社データで訓練したモデルを外部と共有することには、 競争上・法務上のリスクが伴うと会社自身が認識しているということです。
GLP-1関連の特許は当面有効ですが、 同社は「特定製品の知的財産保護の満了、 およびジェネリック・バイオシミラー製品との競争」をリスクとして挙げています。 巨額の収益を生む製品ほど、特許満了時の落差も大きくなります。
インディアナ州に追加45億ドルを投じるのは、需要に供給が追いついていないことの裏返しでもあります。 同社は「需要の予測困難性と変動性、労働力不足、第三者のパフォーマンス、品質、 サイバー攻撃、規制当局の措置に起因する製造上の困難、混乱、不足」をリスクに挙げています。
52週レンジは623.78ドル〜1,249.45ドルで、安値から高値まで2倍の開きがあります。 同社自身、リスク要因に 「当社普通株式の取引価格および時価総額の著しい急落またはボラティリティ」 を明記しています。時価総額1兆ドル規模でも、値動きは小さくありません。
GLP-1製品は需要が極めて強いため、 模倣品、不正表示品、粗悪品、違法に調剤された製品の拡散がリスク要因に挙げられています。 実際、同社は無許可販売に対する法的措置を継続しています。
本シリーズで初めて、レイヤー3企業の「顧客・出資者・買収者」の立場から 同じ産業を見ました。見え方が大きく変わります。
| 出来事 | レイヤー3側から見ると | Lilly側から見ると |
|---|---|---|
| Ajax Therapeutics買収 | Schrödingerの黒字転換をもたらした株式評価益4,587万ドル | IPR&D費用27億7,600万ドルの一部 |
| Absciへの4,000万ドル出資 | 「大手製薬が事業を理解して出資した」という強いシグナル | Q2のIPR&D費用の約1.4%。権利は取得せず |
| AIプラットフォーム構築 | RecursionのBioHive-2、SchrödingerのBunsen | LillyPod(GPU 1,016基)+TuneLab(無償開放、70社超参加) |
本記事で最も重要な発見は、TuneLabの存在です。
レイヤー3企業の投資仮説は、 「大手製薬が自前では作れないAI創薬能力を提供し、対価を得る」というものでした。 しかしLillyは、10億ドル相当とされる自社データで訓練したモデルを構築し、 それを無償でバイオテク企業に開放しています。 見返りは金銭ではなく、参加企業のデータです。
これはレイヤー3企業のビジネスモデルに対する構造的な問いです。 大手製薬が自社でモデルを作れるなら、なぜ外部に高い対価を払うのか。 第1回で見たRecursionの実現率2.5%、 第3回で見たRelayの実現率3.7%という数字は、 この問いに対する市場の暫定的な答えとも読めます。
もっとも、TuneLabへの参加企業が70社を超え、150社を目指しているという事実は、 レイヤー3企業がLillyのモデルを使う側に回りうることも意味します。 競合関係は単純ではありません。
本記事の立場は、強気でも弱気でもありません。 売上+48%、営業利益率39.1%、粗利率86.3%、増配15%、株式数0.7%減という数字は、 本シリーズのどの企業も持たない事業の強さを示しています。 retatrutideの臨床データパッケージ完成も、次の成長エンジンの準備が整ったことを意味します。
同時に、売上の約65%がインクレチン系2製品に依存し、 実現価格は13%低下しており、 Q2だけで取得IPR&D費用27億7,600万ドルを計上し、 株価は52週安値から2倍の水準にあります。
売上850億〜870億ドルという規模から、成長率がどこまで維持されるかが判定材料になります。 投資判断を下すのであれば、 「実現価格は13%低下中」「売上の約65%が単一薬効群」「IPR&D費用がEPSを3.03ドル押し下げ」という 3つの事実を織り込んだうえで行う必要があります。
Eli Lilly(LLY)― 今後の注目点